⾨川泰之さん「インクルーシブの体験をすべての子どもたちに」 前編

門川さんアイキャッチ画像

重症心身障がい児(重心児)で、⽇本でも数例のボーリング・オピッツ症候群という遺伝子疾患を持つ⾨川未來(みく)くん(2003年⽣)のお⽗さんである⾨川泰之さんに、未來くんとの⽣活やご⾃⾝のことなどをお伺いしました。

 

とにかく反応がない!

ーー未來くんが⽣まれた時はどんな感じでしたか?

際立っての早産ではありませんが、1,800gととても小さく⽣まれました。ただ生まれて⼆⽇後には「遺伝子的な障がいがありそうです」と告げられました。妻はかなり辛かったと思います。私もショックでしたが、⽣まれてきたことは変えられないし、家庭全体をどうしていけば…と思った記憶があります。

子どもに関しては、いろいろなことを言われました。親への慰めの意味もあったと思いますが「重い障がいの子は⻑⽣きできない」とか。一方で私に実感が湧かなかったせいか、親しい人たちから「息子さんのこと、全然⽂句⾔わないんですね」というようなことも⾔われました。ただ、なにせ反応がなくて、それは苦しかったです。

 

ーー反応がない中でも、あやしたりしてたのですか?

いろいろなことにチャレンジはしてみました。⼤きな⾳を出してもピクリともしないし、呼びかけても振り向かない。何してもダメという感じでした。しかも逆流性食道炎が酷く嚥下障害もあるので、ミルクをなんとか飲んだと思ったら周りがプールになるくらい吐いたりしました。感染にも弱くて何種類もの肺炎に罹りました。⽇々のケアがすごく大変だった上に、反応もないので「この⼦は⽣きていて何か楽しいことあるのかな」と思うことはありました。

機能的な検査もしましたが、いまでも⾔葉を音としてしか理解できていないと思います。でも1歳半ぐらいのときに、呼びかけにふと⼿を出してきたときがありました。些細なことですが、そのときは嬉しかったですね。いまでも鮮明に憶えています。

 

ーー⼦育ては⼦どもの反応の喜びが⼤きい部分があるなと思うのですが、⾨川さんは何を頼りに⽇々を暮らしてきたのですか?

⾨川:妻は日々の大変さに加えて、周りに障がいのことが言えない状態でした。そこで、もう他界していますが私の⺟に相談、というか頭を下げて助けを乞いました。⺟は気丈な⼈で「ええよ!」とすぐに息子を預かってくれました。そして孫をベビーカーに乗せて、せっせと遊びに連れていってくれました。もちろん未來の反応は薄いんですけれど。

 

ーーおばあちゃんの存在は⼤きかったのですね。

⾨川:ものすごく助かりました。常に妻に積極的に電話をかけてくれ「週末は必ずみるから〜」と⾔ってくれて。⼦どもだけじゃなくて妻もすごくかわいがってもらって、みんなだんだんと落ち着いていったところがありました。「なあ、未來。ばぁばにはいっぱいお世話になったなぁ」

 

祖母とお出かけ

 

仕事と重心児療育

ーー⾨川さんはずっとデザインやブランディングのお仕事を?
⾨川:はい。キャリアは長く、いまの自分の会社でも25年以上経ちました。

 

ーーご⾃⾝の会社だから、未來くんと一緒にいられる時間などもうまく調整できているのですか?
⾨川:逆なんです。この仕事はハードで、本当にどうしようもなく家を空けざるを得ないことがあります。妻も同じ業界人です。いまはレスパイト(家族や介護者の休養を目的とした障がい児の短期入院)が増えましたが、その頃は療育センターの短期⼊所があるぐらいで、⼀⼈は海外、他方も多忙といったときは息子を預けました。

 

ーー未來くんを育てるのは、⼿がかかるなぁと感じますか?
⾨川:うちなんかマシですよ。吸引や胃ろう、呼吸器などもっと⼤変な子どもがいます。ただ、出たと思ったらまた⼊院という時期はありました。昼夜逆転も日常的で…。親と⼦の持久戦が延々と続く感じでした。

 

ーー昼夜逆転は⼤変ですよね。
⾨川:寝息を立てていても小さな物音に即反応するし、夜中じゅう苦しい声を出し続けるときがよくありました。「いろいろいっぱいあったなぁ、未來」

 

父に寄り添って

 

⾨川:重度のお⼦さんがいる家はどこもそうかもしれませんが、「このままいったら、親がその場でぽっくり逝くんちゃうか」みたいなことは日常的で(笑)。極寒の夜中でも病院に⾛る。そうかと思えば、お腹の調⼦が酷くて深夜でも再度お⾵呂に⼊れながら布団やシーツを総入れ替えとか。夫婦総力戦でした。そういえば、いまは増えてきたかもしれませんが父親が療育に関わる家って少ない気がします。

 

ーーお⺟さんのワンオペが多い印象があります。
⾨川:うちは気づいたり、その時体⼒のある⽅が速攻やる!みたいな感じでしたので、何とか乗り切れたのかもしれません。

 

ーー眠れなかったりして、悲観的になったりはしなかったんですか?
⾨川:「たまらんな〜」みたいな感じはあるんですけど。ハードな業界のせいで変な耐性が夫婦共にできてしまって(笑)「なんとかなるやろ」みたいな感じでした。

 

恵まれて、ずっと地域の普通校へ

ーー未來くんはずっと、ずっと普通学校に通っているんですね。
⾨川:はい。⼤阪はインクルーシブに関してとても進んだ地域で、これまでたくさんの恩恵を受けました。配慮もあって一年だけ保育所に⾏くことができたのですが、そのときの息子の変化が普通校での生活をめざしたきっかけになりました。

いまもお付き合いをしている恩人のような女の⼦がいます。 その子はいつも率先して息子と関わってくれたんです。もちろん周りの子どもたちのおかげも⼤きくって、息子がすごく⼈を求めだしたんです。参観や運動会などでも「おぉ!」っていう感じでした。

「⼦どもが⼦どもを育てる」とか「⼦どもの中で⼦どもは育つ」ということに夫婦そろって大きな衝撃を受けました。

保育所の恩人さんへの手紙

 

入院や療育に追われる日々の後に訪れた感動でしたが、安堵する間もなく就学どうしようという時期になり、まず⽀援学校を⾒学に⾏きました。支援学校では保育所と正反対で、⼤⼈が子どもを囲むように療育活動をされていて、ちょっと複雑な気持ちになりました。

次に地域の小学校に行きました。大阪は障がい児の受け入れに寛容でしたが、重心児の場合、まだまだ地域の⼩学校に⾏きたいですと⼿を挙げるお⺟さんは少なかった時代でした。⽀援学校の衝撃が私も妻も⼤きかったので、⼩学校に⾏って「息子は⼦どもたちの中で育てたい」と強くお願いしました。でも私たちにも地域にオープンになれるかという不安もあり、決定のお返事を学校に伝えたのは秋も終わりの頃でした。時間のない中で準備をしていただいた⼩学校の⼊学式では、校舎のあちこちで⽤務員さんが段差をなくす手づくりの傾斜をつけてくれていたりと、そのホスピタリティに胸が熱くなりました 。

 

ーー保育所や学校では、未來くんが嬉しそうだなと感じましたか?
⾨川:保育所では、やんちゃな手出しとかも増えて楽しそうでしたね。⼩学校に⼊ったときは、急に人数も増えるので半年ぐらいは⼈⾒知りをしていました。入学時、未來は身長が100cmに満たないせいもあって、保育所時代と同じく最初は⼥の⼦たちが小さな弟が来たという感じでかわいがってくれました。また学童保育にはご近所の⽅や重度の障害を持つ子どもいて「今⽇、こんなんしたら笑ったよ」とか「〇〇に熱中してたわ」と嬉しい情報を常にいただいていました。小学校では加配の先生方(教員定数に上乗せして配置される⾮常勤の教員)も素敵で、細やかな配慮や工夫など本当に恵まれました。

 

ーー普通校だから、みんな授業で読んだり書いたりしている中で未來くんは何をしているのですか?
⾨川:できるだけみんなと一緒に過ごしたいという希望もあり、加配の先⽣が横について一緒に本を見たり図工に参加したりです。テストなど参加しにくいときは、空いている先⽣が他の学年の教室に連れて⾏って、たくさんの生徒たちに顔見せをしてくれたり、校内のプレイルームで休んだりしていました。

 

小学校時代

 

濃い中学校生活を経て、⾼校受験に挑戦

⾨川:その後、息子のお友だちもたくさん進むので、自然に中学も地域の普通校へという流れでした。⼩学校の先⽣⽅が中学校への情報の細かな受け渡しをしてくださったり、中学校と何度も事前面談をしました。近隣から中学に合流する小学校は共生教育に積極的なこともあり、新しいお友だちはみな息子をなんの偏見もなく仲間にしてくれました。また中学では大好きな音楽に触れられる吹奏楽部に入部できました。息子が演奏できることはありませんが、息子の前でパート練習して反応を楽しむなど部員たちも本当に優しい子どもばかりでした。他のクラブでも、礼節を大切にするラグビー部などの部員たちが先輩後輩を問わず私たちにいつも明るい挨拶をくれるなど、親も嬉しくなる中学校生活でした。

 

中学校時代

 

義務教育が終われば次は⽀援学校高等部へが一般的ですが、⼤阪には15年以上前から『知的障がい⽣徒⾃⽴⽀援コース』という現在11校の公立⾼校で年36名だけ受け⼊れる制度があります。中学校入学時からその制度は知っていましたが、私たちには関係のない話としか捉えていませんでした。ただ日常や部活など健常児たちとの多彩な関わりが、支援学校で頑張るお友だち家族や通う病院の方々に明るいニュースになることを何度も聞き、重心児でも頑張れることを証明したくてチャレンジしました。

 

後編に続く)

インタビュー:寺中 有希 2021.10.24.

プロフィール:

門川 泰之(かどかわ やすゆき)

Fox Project Co-Founder
笑顔。
重心児の息子、未來(みく)にはそれしか語るものがありませんでした。

しかし、無反応が続いた息子が一年だけ通えた保育所で私たち親が見たものは、目を見張るような光景でした。

 

…小さな弟がやって来たかのよう。
話せない、やりとりが理解できない、歩けない息子を周りの子どもたちは何の偏見もなくどんどん可愛がってくれ、息子にも変化が生まれてきたのです。

「子どもが子どもを育てる」「子どもの中で子どもは育つ」。
ごく普通に言われてきたことの意味を初めて知ったような瞬間でした。

 

以来、大阪というインクルーシブ先進地域の文化や制度にも恵まれ、義務教育だけでなく公立高校「知的障がい生徒自立支援コース」にも通え、本当にたくさんの「ともだち」ができました。そして「ともだち」はみな成長していき、たまにしか出会わなくても「ともだち」なんです。

 

お互いに影響し合う「ともだち」は、誰にとっても人生でいちばん長く続く関係です。重いハンデのせいで「ともだち」が出来る機会がほとんどない子どもたちにも、息子のような経験をしてほしい。どちらにもきっと何かが産まれるはず。健常児も障がい児も機能の部分を除けば、豊かな感情は一緒だと思うのです。

 

そんな想いとともに、子どもたちが大人になるまでもっとも長く関わる学校や教育から、みんなが繋がるあたりまえの日常をつくりたくて藤原さとさんと共にFox Projectを立ち上げました。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

息子・未來の学びの歩み
instagram.com/learn_equity/

ピュアな重心児の日常
youtube.com/channel/UCDtpmxY_ovUkMHUs8yihdEg