徹底的な個別の支援が集団を変えていく(前編)〜東京都立高島特別支援学校校長・石川拓さんインタビュー

 

FOXプロジェクトのメンバーが2023年7月25日に高島特別支援学校に訪問し、同校の職員さんたちも含め、石川拓校長先生にお話を伺う機会をいただきました。もともとフレンドシップキャンプという障がいの有無に関係なく参加することができ、富士山の麓でカヌーや火おこしを楽しむ、社会教育活動からキャリアをスタートされた石川先生。その後33年に渡り、新しい学校の開設や、学校管理職などさまざまな立場で特別支援教育の現場経験を積み重ねられました。インタビューはFOXプロジェクトファウンダーの藤原さとが担当させていただきました。

 

石川拓(いしかわ・たく)

東京都立高島特別支援学校校長

1967年、北海道旭川市生まれ。1987年から2000年まで、肢体不自由児と健常児の交流を目的とした教育キャンプ「フレンドシップキャンプ」のボランティアスタッフとして運営に携わる。キャンプでの体験が特別支援教育と共生社会の実現に取り組む契機となる。北海道の公立高等学校勤務の後、93年から東京都立特別支援学校に勤務。肢体不自由特別支援学校、病院内分教室、肢体不自由と知的障害職業学科の併置校などに勤務。2017年から副校長に昇任し水元小合学園(肢・知併置校)、2020年から光明学園(肢・病併置校)に赴任。2023年から校長に昇任し現職。著作に『中一ギャップ』(石川晋、石川拓、高橋正一共著、学事出版2009年)ほか多数

 

 

藤原:

石川先生が特別支援教育に携わられるようになったきっかけのようなものはありますか?

 

石川先生

私は北海道で生まれ、19歳まで旭山動物園で有名な旭川にいました。就学前に1年間行った幼稚園に富山くん(仮名)という知的障がいのある子がいたんです。毎日は来ておらず、来ていてもお母さんと一緒だったと思います。そこで、図画工作のようなことをやるときに、のりしろがあるでしょう? そののりしろのことが富山くんはわからなくて、のりしろに色を塗っちゃうから、糊が乗らないんです。自分に都合のいい記憶かもしれませんが、僕は彼に優しく丁寧に接しました(笑)。図画工作のときには、のりしろにマーカーで印をつけて「富山くん、ここにぬったらだめだよ」って言ったりね。

 

その後、小中高のあいだに学校で障がいのある子に出会った記憶があまりありません。ですが、幼い時に住んでいた家の隣にいた子のお母さんが、ろう者でした。全く聞こえず、全くしゃべれず、手話も使えなかったと思います。そのお母さんとうちの母がしょっちゅう、話をしていたんですね。子ども心にテレパシーでも使えるのかと思った記憶があります。

 

父は中学校の教員で物書きでした。父は文芸運動を通して人間性を回復するような運動を地でいくような人でした。父が横断幕を持ったりして、デモ活動をやるときには僕は兄といつも連れて行かれていました。母は、1970年代に国内であちこちに自宅を文庫にしていくという動きがあり、その非常に初期の実践をした人物です。なので、小学校4年生のときには自宅が文庫になってしまいました。数千冊の絵本、文芸家の父の1万冊くらいの本に囲まれて育ちました。

 

特に母は、まぁ、父もそうだったんですが、好きな社会運動をしていて、そのうち自然保護運動に傾倒していきます。国内でも有数の女性闘士といって良いのではないでしょうか。そんなことで、家には非常に生きにくい人たちが集まっていました。ドアには鍵がかかっておらず、朝気がついたら誰かがいるというような感じでした。家のすぐ近くに三浦綾子が『氷点』という作品で舞台となった見本林があるんですよ。僕はその林の中に入って、野のものをとって食べたり、虫を眺めたり、特定の植物を観察したりしていました。今でも山とか川とか林にいると何時間でも何日でもいられます。生物にはすごく詳しいですよ。

 

藤原:

すごく個性的なご家庭で育ったんですね。

 

石川先生

ただ、大学で人間科学部に進んだところは普通かもしれません。小中と音楽が好きで、高校に入った時に音大でリトミックをやろうと思って、声楽と指揮法を学びたく、勉強をしたんですが、途中であきらめてしまいました。高校3年の6月の球技大会で、ソフトボールのバッターボックスにたったときになぜか「音大やめよう」と思ったんですね。地方の進学校で、芸術3を履修するは音大や専門学校を目指すことが条件となっていて、6人の中の一人だったのですが。要は周りがすごすぎて、僕はなんて中途半端だろうと思ったんですよね。実際にその中の3人は芸大に入りました。

 

でも、大学時代、1987年の夏に教育キャンプ(フレンドシップキャンプ)に出会います。このことが直接的には今の僕の仕事に繋がっています。そこから13年間は教育キャンプに没頭し、その領域の研究者か実践者として生きていきたいと本気で思っていました。一番最初のフィールドが、肢体不自由児と健常児が半々の構成で交流を行うキャンプで、そこでボランティアリーダーをやったことが、結果この道に入っていくことのきっかけとなりました。

 

 

藤原:

先生のようなキャリアは特殊ですか?それとも、こうした社会教育から特別支援に入られる方は多いんでしょうか?



石川先生:

教育キャンプの経験を経て特別支援教育に携わるようになった人を何人か知っています。多くはないと思います。僕自身は当初福祉の専門職になろうと思っていました。大学のカリキュラムの中で住み込みの臨床実習を重ねるうちに、福祉の臨床における専門性にワクワクすると同時に、当時、福祉を生業とする人たちの貧しい生活の現実を知って、養護学校の教員になろうと思いました。北海道の養護学校枠で受験したのですが、高校に採用されて、2高校の教員をやったのちに、東京に戻って特別支援学校の教師になりました。

 

特別支援教育は、やりたくて最初から入ってくる先生も多いですよ。半分以上はそうではないでしょうか。みなさん優秀ですよ。びっくりするような学歴の先生も多いです。あとは、特別支援の専修免許状をとってくる人、実習やボランティアで障がいのある方に出会ったり、障がい当事者の家族であることがきっかけという方が、何人かいますね。

藤原:

特別支援の先生は、肢体不自由とか知的障害などのカテゴリーで配属されるのですか?

 

石川先生:

少なくと東京は採用試験の時点で障がいの種別は選べません。東京都が決めるのです。ただ、圧倒的に知的障害の学校が多いんです。東京都の特別支援学校(小中高)に在籍する子どもの数はおよそ14,000人です。その中で知的障害が10,000人ちょっとです。肢体不自由が2,000人、その他は千人未満(視覚・聴覚・病弱)です。

令和5年度 公立学校統計調査報告書【学校調査編】東京特別支援学校

 

藤原:

話が少し戻りますが、フレンドシップキャンプとはどんなキャンプなのですか?そこでの経験を教えてください。

 

石川先生:

日本肢体不自由児協会が関わる3つのサマーキャンプ(療育キャンプ)があるのですがフレンドシップキャンプはその中でも基本的には応答ができ、身体介護も比較的軽いとされる子たちが来るキャンプで、プログラムもアクティビティが多いものです。ほかの2つは、非常に障がいの重い子たちを対象とする高木記念キャンプと中程度の障がいのある子たち向けの手足の不自由な子たちのキャンプです。

社会福祉法人 日本肢体不自由児協会の療育キャンプ

この3つのキャンプは、特別支援学校に募集の通知がいって、キャンプ前にはキャンプに参加できるかどうかを医師が判断する健康診断を行うために、東京の代々木公園に隣接している国立オリンピック記念青少年総合センターなどにみんなが集まります。

 

がフレンドシップキャンプに初めて参加した時の役割は高校生の複数のグループを統括するユニットのリーダーでした。当時、5月に行われた事前の健康診断で、さまざまな障がいを持つ200人もの子どもたちに出会ったとき、正直受け止められずに酔いそうになりました。リーダー選考の倍率は高く、選ばれたからには頑張らねばとは思っていましたが、動揺した気持ちのままキャンプに入りました。

 

フレンドシップキャンプは毎年8月に東京YMCAの山中湖センターで4泊5日のキャンプをします。キャンプ期間中は障がい児と健常児が半々で10名弱の小集団を作って、1名のカウンセラーリーダーと共に寄食を共にします。そこで、喧嘩が初日に起きたんです。

 

喧嘩はアテトーゼ型の重い脳性まひ(国立精神・神経医療センター「脳性麻痺」)のある男の子と不登校気味の子の間に起きました。どちらも高校3年生です。障がいのある子が車いすのフットレスト相手の足にぶつけてぶつけられた子のすねから血がでるような大喧嘩でした。そこで、リーダーである自分は、全く介入できなかったんです。見かねた先輩リーダーが2人を離しました。

 

その夜には、リーダー会があり、10歳くらい上の社会人のリーダーが10人くらいのボランティアスタッフがいる中で、僕に「あのときなんで介入できなかったの?説明してみて」と言ったんです。でも、全く話せなかった。沈黙のあと、他のリーダーが「それは石川が相手を障がい者だと思っていたからだよ」と言ったんです。そしてそれに続けて「俺もそうだったから」と言ってくれた。その数秒のやりとりで、僕のなかの価値観というか経験がリセットされるというか、ガラガラと音を立てて崩れていくような感覚を持ちました。

 

つまり、障がいのある子を喧嘩をする対象とすら思っておらず、対等に見ていなかったことを突きつけられたんです。ボランティアという体で何かをしてあげなければいけない、そんなふうな立ち方しかできていなかったということを思い知らされました。そんな自分が対話のなかで自分の差別感情に気づいていき、19歳になるまで障がいのある子たちに出会えなかったことを後悔するようになりました。知らないと、良かれと思って、むしろ社会から障がいのある子たちを引き剥がしてしまうような考え方や行動をとってしまう可能性があります。

 

藤原:

そのリーダーたちとのやりとりから学ぶことが多かったということですね。

 

石川先生:

はい。それは、困っている自分を受け止めてくれることで集団が活性化されていくことを地で学んでいく経験でした。翌日のリーダー会からは「障がい児が食事こぼして汚いから、食事時間が嫌だって健常児が言うんだ」とか「健常児ばかり固まってるって障がい児が言っている」とか「車いすなのに野球やろうって言うんだ、こまっちゃったと健常児が言ってきたなどの、子どもたちの気づきや変化や戸惑いに寄り添った報告リーダーたちが行うようになっていきました。

 

ここで起きていたことは、ほかでもない「リーダーとして対応できなかった僕」という「個」を支援することが、リーダー間の信頼関係と、リーダーの気づきも促して、集団が成長していくというプロセスそのものでした。だからこそ、僕は学級集団をどうするかということよりも、個別の支援から入っていくようになったんです。僕は、この経験をきっかけに、学生時代に「個別の支援」を集団の成長に繋ぐという対人援助技術の方法を学んでいくことになります。

 

石川の言うような個別の対応を優先していたら学級崩壊する小中学校の教師たちから言われることもありました。確かにそういう現実はありますよ。僕が最初に教師をしていた高校は年間1クラス程度の生徒が辞める学校でした。その学校でも僕の個別の支援が集団を変えていく、という信念は変わらなかったですね。 (後編に続く)