稲原美苗さんインタビュー(前編):マイノリティ当事者としてさまざまな地域で育ってきて

 

稲原美苗さんは、ジェンダー論、現象学、障害の哲学、臨床哲学を研究される大学の先生です。脳性まひのマイノリティ当事者(障害者)でもあります。小さな頃は大阪で、地元の子どもたちと一緒に育ちました。しかし、小学校高学年から三重県に転校、あまりの環境の違いにびっくりします。辛い経験もしましたが、高校で二人の恩師に出会ったことから人生が動きはじめます。棒術の部活に入り、電子楽器を演奏。その後、留学を決意。オーストラリアの大学で社会学を学び、イギリスの大学院では障害の哲学を学びます。マイキーさんという素敵なパートナーにも出会って、今に至ります。世界のさまざまな場所で学んできた美苗さん。前編は幼少期から高校まで、大阪と三重という二つの違うコミュニティでの経験について伺いました。

後編では、オーストラリア、イギリスでの経験、そして今について伺いました。冒頭の写真はオーストラリアの大学を卒業したときのもの。お母様と妹さんと一緒に)

 

「養護学校のご案内」が届いて泣いた日

 

ーー今、どんなお仕事をされていますか?

大学で教員をしています。哲学とジェンダー論を中心に、学生さんたちにマイノリティからの世界観を考えて頂けるように工夫しています。大学の教員ですので、研究もしています。専門は現象学や臨床哲学です。脳性まひがあるので、声が出しにくいのですが、学生さんたちは私を教員として受け入れてくれています。

 

ーー小さなころのお話を聞かせてもらってもいいですか?

1972年(昭和47年)に大阪で生まれて、そこで地域の子どもたちと一緒に育ちました。幼稚園は公立の1年保育でした。幼稚園の制服のボタンをかけることができずに、お着替えができなかったことで、初めて恥ずかしいと思いました。でも、周囲の子どもたちも私のできないことを手伝ってくれたりして、葛藤はありましたが、毎日楽しく生活していました。

 

そのまま皆が通う小学校へ一緒に行けると思っていたのですが、私のところに届いたのが「養護学校入学のご案内」でした。幼すぎて、はっきりと覚えていないのですが、母親に泣きついたと思います。私の母親と年子の妹、幼馴染のお母さんと一緒に教育委員会に行き、「地域の小学校でみんなと一緒に学びたい!」と訴えました。教育委員会や地域の小学校の協力を得て、みんなと同じ教室で学べることになりました。

 

(小学生のころ、妹と)

 

ーーそれはよかったですね。大阪の小学校はどうでしたか?

1年生から5年生の1学期まで大阪の小学校で過ごしました。色々困難もありましたが、毎日楽しかったです。登校中に道路で転んで、大泣きしたこともあったし、年子の妹が入学してからは、妹が小学校へ連れて行ってくれたり、体育の授業は支援してくださる先生が一人ついてくださっていました。球技が苦手で、参加したくないから、「障害があるからできないよ」と、言い訳をして、ずるをしていたことも覚えています。でも、家族の都合で、住み慣れた地域を離れることになって…。

 

ーー転校ですか。。 

小学5年生の2学期から転校しましたが、それまでの暮らしていた世界と比べると、その世界はまったく異なっていました。どのように友達を作ったら良いのかもわからなかったし、共通の話題もありませんでした。言葉は通じるけど、どこかの不思議な国に入り込んでしまった感覚でした。疎外感を覚えました。担任の先生も、障害のある生徒を受け持ったことがなかったし、周りの子どもたちも障害のある子どもと出逢ったことがなかったと思います。5年生の3学期ごろにいじめが酷くなり、二度と思い出したくないような経験をしました。

 

地域コミュニティの大切さを実感する

 

6年生になってもいじめの状況が改善しなくって…。それで、家族で色々考えて、私だけ大阪の親戚のところ(以前住んでいた頃と同じ校区)へ移り住むことになりました。中学校入学から元の友達がいるところで暮らすことになりました。でも、2年弱の間でお互いの状況が大きく変わってしまって、以前のように友達付き合いや学校生活をすることができなかったんです。家族がいない生活に限界を感じて、少しずつ体調も悪くなりました。大阪の学校でいじめられた経験はありませんが、以前のように周囲と仲良くできない自分にがっかりしました。結局、1年生の11月に三重の中学校へ転校することにしました。つまり、大阪だから楽しく住めるわけではなく、生まれてからずっとその地域コミュニティで一緒に住んでいたから、培われた絆が鍵だったんです。もう一度同じような関係性をもちたいと願っていても、そうならないということをこの経験から学びました。

 

ーーいちど失った関係性を取り戻すのは難しいのですね。

でも、三重から大阪、そして大阪から三重へ、動いたことは無駄ではありませんでした。転校先の三重の中学校の先生方が、色々な配慮をしてくださって、いじめはゼロにはなりませんでしたが、徐々に改善していきました。中学校の先生方には感謝しています。そして、高校進学する際に、少し離れたところを選びました。私を知っている人が少ない場所で、一から関係を作りたかったんです。

 

学校の先生が道を開いてくれた

 

ーー高校はどうでしたか?

高校はとても良かったです。楽しかったし、自分らしく生きることもできました。高校時代に二人の恩師に出会えたことが、その後の私の人生に大きな影響を与えました。一人は、部活動で3年間お世話になった先生、もう一人は、2・3年のクラス担任だった先生です。そのお二人とは今でも繋がっています。高校で始めた部活が、私にとってとても良い経験になりました。棒術という長い棒を武器とする武術です。高校入学当初は、自分がまさか運動部に入るなんて考えていなかったんですが、「このような同好会があるけど、一緒に入らない?」って友達に誘われて、入部届を持って、顧問の先生のところへ行ったのを今でも覚えています。「どうせ、入部させてもらえないよー。私は障害者だから・・・」っていう気持ちだったんですが、その先生は私を見て、「よし、今日の放課後から始めるから、グランドに集合してな。」って言ってくれて、あっさり入部させてくれたんです。

 

その友人は1年の夏休み前に退部してしまいましたが、私は3年間棒術を続けました。続けて良かったです。何が良かったかというと、自分の弱さに気づけたこと…。顧問の先生は私のことを考えて、手加減なしでした。(手加減してくれていたとは思うけど…。真剣勝負をする礼儀みたいなことを教わったと思います。それまで障害があることを言い訳にしていたこともあり、自分で自分にブレーキをかけていました。そういう自分に気づかせてくれたのが、棒術だったと思います。)

 

(高校時代の棒術の部活で。左が先生)

 

担任の先生の前では何度も泣いてしまったかな…。なかなか進路が決まらずに…。ずっと音楽が好きで、電子楽器を演奏していました。(ミーハーだったのですが、YMOの坂本龍一さんやTM NETWORKの小室哲哉さんに憧れていました。今は演奏できなくなってしまいました。)作曲家になるのが夢だったんです。ある芸術系の大学のオープンキャンパスに先生と一緒に行く機会があって、その際に、「あなたのような障害があると、演習の参加が難しいと思うので、本校に受験しない方が良いですよ」みたいなニュアンスのアドバイスを頂いたんで、帰りの電車の中で大泣きしてしまいました。その担任の先生は、「なりたい自分になれるよ!」っていつも応援してくれたのが、私の原動力になりました。

 

後編に続く

 

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語り手 稲原美苗さん

 

神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授。
専門は現象学、ジェンダー論、臨床哲学。
対話の中でジェンダーやマイノリティの問題を考える活動をしている。

共編著『フェミニスト現象学入門―経験から「普通」を問い直す』(2020年、ナカニシヤ出版)、『フェミニスト現象学―経験が響きあう場所へ』(近刊、ナカニシヤ出版)